毎日、ネットで歴史を調べる。もちろん、ネットなので、大まかな事しかわからないし、もしかしたら、それも書いている人の見方によって異なるだろう。
サラエボの様子や地下トンネル跡にあった説明では、セルビア軍がサラエボを包囲して、民間家屋に砲撃を浴びせていたことや、その際に、虐殺があったことが記録されていた。
セルビア、セルビア人=怖い。いう印象をもってしまう。しかし、サラエボからセルビアに入国してすぐ、バスが休憩した時、自分の潜在意識を反省する。
トイレに行こうとすると、相変わらず、お金がかかる。持っているのは、コンヴェルティビルナマルク KM。ボスニアのお金だけ。周りを見ると、併設スーパーのレジの方が、受け取っている。さらに、スーパーでは、KMを受け付けてくれている。通貨見ても、怒るかな、、、と心配していたら、笑顔で、大丈夫よ!いいよいいよ!と。緊張感はあったが、何だかほっとした。
ベオグラードの市内に入ると街が大きいのがわかる。川沿いの雰囲気が、プラハにどことなく似ているように思うのは私だけだろうか、、、。バスパークに着いたら、タクシードライバーが声をかけてくる。が、近いから。と断ると、ok。で終わる。みんながそれ。しつこく聞かれると身構えていたが、あっさり。
宿が地図通りに無くて、色々な人に訊いたが、どの人も、やってる作業を中断して、セルビア語かな?ではあるが、身振り手振りで教えてくれる。優しい。宿の受付のmikiもすごく丁寧に宿の説明をしてくれた。歴史が一致しなかった。
その中でのベオグラード町巡り。
まず、行ったのはNATO•アメリカの空爆の跡。
1999年。コソボ紛争と呼ばれる紛争で、なかなか和解に至らない様子にNATO•アメリカが、セルビアに対して、条件を出し、空爆の警告を出すも、セルビアがこれを全面承諾しなかった為、軍事施設、司令部が集まる建物を空爆した『らしい』。
正教会外観。中は改修中でした。
地下。とても美しい。
この地域一帯は、1929年から、セルビアではなく、ユーゴスラビアという国として『七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家』と形容されるように、スロベニア、クロアチア、セルビア、ボスニアヘルツェゴビナ、モンテネグロ、マケドニアが含まれていた。その首都がベオグラードだった。
Google mapより。
恥ずかしながら、ユーゴスラビアという国で習っていたし、この上記の6つの国と並列してユーゴスラビアがあるように思っていた。なんとなくしか知らなかった。そんな事もあり、その後、ユーゴスラビア博物館へ。
ユーゴスラビアという国は、第一次大戦後に独立するが、第二次大戦では、ナチスドイツに占領される。後にユーゴスラビア大統領となるチトーという人を中心とするパルチザン勢力が国土を取り返す。チトーの名前は、今まで旅してきた中で何回か聞いた名前。1980年に彼が亡くなり、1989年に冷戦が終了、ベルリンの壁崩壊があり、1991年ソ連崩壊解体と時を同じくしてユーゴスラビア内も次々と独立する国が増えていく。この過程の中で、紛争、虐殺、強奪、強姦があった。2006年にセルビアとモンテネグロ共和国に分裂し、今の形に至ったという。
博物館には、チトーが眠る。チトーは、独立して間もないアフリカの国々へ、非同盟主義諸国のリーダーとして外交していた様子も紹介されていた。
世界が連動して、戦争に巻き込まれていく様子。ナチスドイツのアウシュビッツを訪問し、ヨーロッパを訪問し始め、今まさに歴史の中に自分がいるのを感じる。アウシュビッツは、一例に過ぎないんだな、、、。そんな事を感じながら、友人が調べてくれたレストランへ向かう。
このお店は、テニスプレイヤーのジョコビッチの御両親が経営されているお店。彼は、紛争真っ只中の時にいる。旅友が調べてくれるまで、セルビア出身とは知らなかった。彼がテニスにかける思いや、明るく振る舞う理由は、こういう背景があったのだろう。
更に旅友が、調べてくれてストイコビッチって知ってる?名古屋グランパスの。という。きいたことがある。彼もセルビア出身との事。
急に記憶が蘇る。よくテレビで、スポーツを見ていると、解説者やアナウンサーが、〇〇選手が泣いております。祖国では、内戦が続いており、、、と説明したり、オリンピックでも、選手や、国の背景を解説していたことを。時代を経てつながる記憶。
サッカーが熱狂的なファンが多いのも、国や地域の代表だからなんだろう。色々な事がつながっていく。
バルカン半島がヨーロッパの火薬庫と言われる由縁を実感している。この後、コソボ、マケドニア、アルバニアと旧ユーゴスラビアの旅続く。