リトアニアで感じたこと。

エストニア

ラトビア

リトアニア

バルト三国の最後の国。 

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ヴィリニュス最終日に、市内を回る中で、KGB博物館にも行った。

ここは、リトアニアソ連が占領時にKGB ソ連国家保安委員会がリトアニア人を1940年から1991年まで、収容所として実際に拷問や、殺害、シベリアに送るなどした場所。

そこに上の地図があった。ソ連が占領していた時の地図だと思う。

地図上の左側にバルト三国がある。

 

1991年、私は中学1年生。ソ連がよくとりあげられていたのは覚えている。ソ連が解体して、独立する国が沢山だなあという記憶はある。

 

博物館の中に入っていくと、一歩踏み出すごとに、緊張が走り、怖さを感じた。人が人を、殺す場所、物、全てに怖さを感じた。霊的な怖さではなく、人間の残酷さが、本当に怖くて、文章など資料を撮影する為のカメラ持ち込み代を払ったが、なかなか写真を撮る気にはなれなかった。地図だけ撮影した。

 

この建物を後にして、見たもの、映像

それらがつい最近まで使用されていた現実、自分がこの世に生きていて、同じ時間にこんなことが行われていた事を目の当たりにした衝撃が大きすぎて、説明できない感情になった。

 

リトアニアは、日本人には、杉原千畝という方が有名だと思う。ユダヤ人6000人にビザを発給し、命を救った人である。

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私も、その知識だけを持って、総領事館のあったカウナスに来た。領事館も見て来た。

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出国間際に泊まりながら、発給していたらしく、そのホテルに泊まった。

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杉原千畝が発給したビザは、日本の通過ビザで、当時ナチスドイツから迫害を受けていたユダヤ人が、唯一逃避できる場所が、カリブ海のオランダ領キュラソー島だったらしい。

そこには、シベリア鉄道で、ウラジオストクまで行き、日本に渡り、キュラソー島に行くルートしかなく、オランダ名誉領事ヤン・ツバルテンディクが、キュラソービザを、杉原千畝が日本の通過ビザを発給したようだ。

 

この当時のリトアニアは、ドイツに支配されていた。ともすれば、リトアニアの人たちも、ユダヤ人に対して何か思っていたのかなと、、、そうならば、リトアニア人にとって、杉原千畝はどんな風に見えていたのだろう、、、という疑問がわいた。

 

資料を見たり、博物館を訪問したりする中で、リトアニアバルト三国の国々が、当時のドイツとソ連の支配下に置かれたり、二国間の取引で、ソ連に吸収され、その中で、KGB博物館のような事がなされ、翻弄されてきた歴史を知った。また、時代ごとに国を構成する民族の割合を見ても、リトアニア人が二桁に満たない時代もあり、リトアニア人が国に対して抱くものは、私にはおし測る事すらできない。

 

しかし、ラトビアのリガや、ヴィリニュスにある塔で見た「200万人の人間の鎖エストニアのタリンから、ラトビアのリガ、リトアニアのヴィリニュスまでの600kmを、200万人が手を繋いだもの。

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三国の独立のきっかけとなった鎖のスタート地点に立って、三国の訪問を振り返りながら、見てきたもの、知ったことを思い出し、街を見渡すと、何かまた違った見方が自分の中ででてくるのがわかった。

 

大陸でこその問題、課題。それについて知識を、見方を深め続けたいと思います。

次は、ポーランドに向かいます!