この1ヶ月間、毎日知人に会い、チヤ(紅茶)を頂き、カザ、ナスタ(軽食)を頂き、ダルバート(ネパールご飯 豆スープ と 白米)を頂いた。
振り返れば、また観光らしき観光をしないで終わるネパール滞在。自分の中では、大阪から東京に帰ると同じ、里帰りのようなものである。
それでも会えなかった人もいて、もうちょっと時間があったらなあと思う。
さて、数回前の日記にとても興奮して、途中になったものがあった。
それは、一番最初に活動した任地ダデルドゥラを14年ぶりに訪問できるかも!となった事。さらには、2日がかりで行っていた任地が1日で着くと聞いて、居ても立っても居られなかった。
出発2日前あたりから、興奮して眠れず当日も本当に行けるのか疑心暗鬼。5年位前に極西部ダンガリまで飛行機でいくも、雨季にあたり降雨のせいで、土砂崩れがあり道が封鎖。泣く泣く断念した経緯がある。確かに遠く、友人の中には秘境ダデルドゥラという人もいた。
ダンガリはダンガルヒとなっている。ダデルドゥラはもはや載っていないが、ダンガルヒから北に行ったとこにある。
時間を優先し、当日は外国人料金片道214ドル(高いわっ!)の飛行機を利用。早朝の便は無く、昼の便に。飛行機は霧?もや?排気ガス?により1時間半位遅れた。しかし、この飛行機からの景色は最高だ。ヒマラヤ山脈がずっと続き飽きない。気持ちが高ぶる。
ダンガリに着いたのは3時過ぎ。
これ、ダデルドゥラに今日つくのか?そんな不安を感じながら、マイクロバスの人に電話。ダデルドゥラの知り合いが、知り合いに頼んでくれていたはすだったが、飛行場の出口でと言っていたのに、来ない。電話。今どこ?空港。わかった。それから、待つこと1時間弱。これは、こーへんな。電話する。で、今どこや?と。いや、あなたさっき言ったでしょ。まだ、空港ですよ、、、。みたいなやりとりの結果、私たちは18kg位の重さを背負い、2キロ弱大通りまで歩いて出た。しょっぱなから、これかー!隊員の時の悪夢再開やないかーい。大通りに出て、しばらく待ってると電話。今そこにおくったタクシーに乗れ!と。
、、、、。なかなかの年配のドライバーがやんちゃな走りでやってきて、私らを通り過ぎてUターン。これ!?しかも、誰か乗ってるけど?はい。これでした。5人で仲良くダデルドゥラへ。道中色々あったが21時位に着。遠いと思っていた任地に、時の経過とインフラ整備の発達により早く着く。あまりの早さに若干感動のタイミングを失う。到着直後から、昔からの知人の歓迎を受け、その日は就寝。
翌朝、懐かしい匂いや音とともに起きる。チヤを頂く。若干牛乳の乳脂肪分が濃い気がする。ネパールにくる多くの旅行者はエベレストやアンナプルナと言ったネパール中央部から東の山々を見にくる。ネパール極西部にあるこの山々を見る人は少ない。このヒマラヤ山脈が朝は薄赤く、昼には白く、夕方はうす青くなるこの景色を長年心待ちにしていたんだなあと、懐かしさと嬉しさに浸った。
海外青年協力隊の活動期間は2年間。つまり、私は16年前に初めてネパールに降り立ち、この地を踏みしめた。旅友が言う。
卒業した子達が産まれた年に、ネパールに来たんだね。と。ほんまや!
この頃、みんなは産まれたんや。
出逢った子達にネパールの話をし、子どもたちもネパールに関心を持ってくれ、繋がりを感じていた。仕事を辞めたからこそ戻って来ることができたことを1人ジーンと噛み締めていたら、何だか目から水が一滴滴った。
そんなこと思いながら、活動していた学校へ。この日は休みで近くの子らがトランプをしていた。
学校の前で生徒に逢った。え!?もしや、、、でかなったな〜!ちっちゃかったやんか!出逢ったばかりの時10歳で小柄だった彼は、今では26歳。ダデルドゥララジオ局で情報発信している。
それからは、知り合いを訪ねて再開の日々。あの頃の生徒はほとんどが空港があったダンガリやお隣のマヘンドラナガル、カトマンズに行っていた。女の子達はほとんどが結婚していて逢えなかった。それでも、歩いていたら声をかけてくれたり、昔のいる子やおばちゃんや、おじちゃん達に会えた。3日滞在予定を5日にした。私が来ていると聞いて、出発日の朝に逢いに来てくれた生徒もいた。ああ、戻って来たなあと懐かしかった。
この後、また感動の再会は続くが、思い出したらどんどん出て来て、携帯で打ち続けられそうもない。
とりあえず、今から6時間後に出国してしまうので、この感動はネパールで記しておきたかったので、、、。
続きはまたいつか。
で、次行くところは、タイ。